THINKING MEGANE

2018, 認知的転回

2018年が始まる。今年の抱負などをまとめておきたい。

こだわらない

昨年は、ふりかえりにあったように、人生最高潮に達したあらゆるものに対する固執が目を曇らせ、足を引っ張っていたように思う。他の人からすごいと思われたい、あっと驚く成果を短期的に努力している風を見せずにいきなり出したい、全てOSSにして世間から認められたい、エトセトラエトセトラ…

今年は、特に外的な動機で反応的に動くのをやめようと思う。大きく目標を見据えて、目先の手段や方法論にこだわらずに、一歩づつ、でも着実に必要なことを進めていきたい。

まずは昨年の類似画像検索を、なめらかなシステムから見る情報要求の照合として位置付けた上で、評価考察して、ジャーナルに向けて進めたい。 最終的には、なめらかなシステムから見る情報要求の照合を体系化しながら、個別技術を順々に適用しつつ育てていくという風にできたらなあと考えている。

思考の言語化に努める

現状の自分の限界から一つ進むために確実にやらないといけないことは、思考の言語化であり、これができないと論文で新規性も語れないし、そもそも進むべき道も与えられることでしか見えてこない。

実際は、何年も課題意識を持ちながらも打つ手がない状態だったのであるが、昨年読んだエントリや同僚の論文システムを読むとやはり量が前提であるというのがわかる。これまではなんかよく思われたいという見栄からだんだんと腰が重くなっていたので、数をこなすというのが一つ。しかしながら、熟考というのも同時に必要だろうとは思う。

そこで、思考を言語化するに当たって、数を打つのは、エッセイ的な気楽さのエントリを続けることで慣らしながら、研究会に向けては都度議論の上で考えを深めた成果を発表していくという二本立てでやってみたいと思う。特に気楽なエントリは自分にこびりついたよく見られたいというエゴをそぎ落とすような感覚を持ちながら、書いていくことでこだわらないも支援できたらいいなと考えている。

人生の解像度を上げる

ここ数年、近視眼的に過ごしてきたことで、なんだか味気がなかった気がする。何かを学んでもその場限りで、イベントも参加しながらもこなすだけ、見ているようで見ていない、そんな気分だった。プライベートも同様で、それなりに平和に暮らせたと思うけども特に何の思い出もない気がしている。

外部刺激のうち解釈側に影響を与えることができたものを情報というらしい。外部からの評価やその場限りのノリだけは自分を揺さぶったけども、もう少し小さな穏やかな刺激にも反応できるようになりたいと思うし、それが周りを見る余裕になるはずである。

思考の言語化に対する取り組みがその一助になるとは思うけども、相手のことを思いながら過ごす時間というのを大切にしたい。

だから新しいカメラが欲しいです。


何だか昨年までと比べてこれはこれで極端だなあと思いながら、いろいろ試しながらやっていきたいと思います。2018年もどうぞよろしくお願いいたします。

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