THINKING MEGANE

テッド・チャン『息吹』と「なめらかなシステム」

昨年末にあんちぽさんからお勧めされていた、テッド・チャン『息吹』をようやっと読み終えた。

本書を通して所属する研究所のビジョンである「なめらかなシステム」の世界観について理解が深まったように感じたのでメモしておく。

本書は表題の「息吹」を含むSFの短編集である。全部で9編の作品から成る。 多くの作品は、現在の地球の水準より進んだ技術とそれを扱う知性体が登場する。 登場人物は世界を左右するような運命や世界をまたにかける使命など帯びていないどこにでもいるような人々であることが多い。 (『イブの時間』などが雰囲気としては近いかもしれない) 彼ら彼女らはただ、彼らにとっては当然となった新しい技術に起因する変化に彼ら彼女らなりに適応していく。 この技術と変化の設定がリアリティを持っているがゆえに、読者はそう遠くない未来に地球の技術水準が到達した後に発生するであろう変化に対して自分ならばどうするかと没入感を持って作品にのめり込む。

さて研究所のビジョンとしての「なめらかなシステム」であるが、情報システムとこれを取り巻く要素が互いに影響を及ぼし合う総体としてのシステム観である。 これに対し、以前に「なめらかなシステムの見据えるもの。個人的考察」のエントリで、なめらかであることの必然性を問いの発端としてその未来像を検討した。 その際は、「個性」というキーワードで、システムと接する要素が多様かつ継続的に変化することを前提としてこれにシステム側が適応することがこの必然性につながると考えた。 いわば、システムを利用する要素(特に人間)が主でシステムが従のような捉え方であった。 ここで、「なめらかなシステム」自体は、要素間に主従の考えは導入していないにも関わらず、個人の感性としてバイアス的にこのような考えが導入されてしまったと思う。 そのためか、互いに影響を及ぼし合うと言いつつも、システムの利用側としては、そのシステムとそのタスクに限定された影響(例えば、情報要求の前進、あるいは具体化など)程度に収まると考えていた。

一方で、今回の読書を通して、一段階規模を広げたシステム観に思い至れた。 もし、個別のシステムを超えて、全体としての技術水準やパラダイムのような圧倒的な変化があれば、主従が変化し、そのような技術に追従するために人生観や哲学でさえも(好むと好まざるに関わらず)そこに適応しなければならない。 「なめらかなシステム」においては、ある意味、これまでであれば受け手側が制御不能なレベルでの変化をも適応していきたい。

今回、単一のシステムから技術、パラダイムの変化にまで拡大してシステム観を適用して考える契機になったと思う。 僕にとって発想を広げるのはSFを読む醍醐味であり、今回の作品は大いにこれが達成されて満足している。 興味を持った方は是非読んで欲しい。 短編集なので1時間程度の空きがあれば少しづつ読み進めることができると思う。 代表作の「息吹」だけでも読んで欲しいし、「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」「偽りのない事実、偽りのない気持ち」「オムファロス」「不安は自由のめまい」もお勧めしたい。

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